2013年3月22日金曜日

福山競馬ラストラン


<1>最盛期 年100万人突破

 1949年9月18日、第1回福山競馬が開催された。芦田川の河川敷を固めたコースで、係員が振る旗を合図にスタート。木造スタンドからの歓声が、空襲からの復興が進む周辺に響き渡ったという。
 この日、騎手としてダートを駆けた寺田忠さん(83)は、「賞金よりも、駆け引きに勝ったときの感覚が忘れられない」と、現役時代の思い出を熱く語る。
 父親も騎手で、小学生の頃から馬に乗っていた。18歳で山口県の柳井競馬場(廃止)でデビュー。1年後、福山競馬場開設と同時に移った。
 福山競馬は、当初から順調な歩みではなかった。福山競馬事業概要(2009年度版)によると、初年度の県内競馬場の入場者数は8万6441人だったが、1953年度には3万3205人まで減少。58年度からは2万人台にまで落ち込んだ。
 不人気が続き、60年代は各地で廃止論が巻き起こった。65年度に県と呉市が、68年度に広島市が競馬事業から撤退した。福山競馬でも廃止が議論され、寺田さんも騎手仲間らと、存続を求めて県庁や市役所に陳情に行ったという。
 廃止された呉競馬や広島競馬の開催権は福山市が引き継ぎ、結果的に県内で唯一の競馬場となったこともあって客足が回復した。68年度から、それまでの3倍の年12回開催となり、ファンも定着して入場者は31万人とにぎわいを取り戻した。69年度には40万人を超え、観客スタンドも増築。入場者は年々増え、74年度には最高の104万人を記録。
 寺田さんは「観客も増えてやりがいも出てきた。レースに勝つと割烹(かっぽう)料理屋でのごちそうにありつけた」と振り返る。一方、負けた時は、1本のたばこを他の騎手と半分ずつ分け合って吸い、悲哀をかみしめたという。
 寺田さんは40歳すぎに騎手を引退してからも調教師として計40年以上、福山競馬を支えた。
 福山競馬廃止が決まった直後の昨年12月。寺田さんは若い日に読み込んだ競馬関係の書籍や資料、九州や北海道の牧場を巡り撮りためた競走馬の写真など、段ボール2箱分を捨てた。いつか後輩に譲ろうと、引退後も保管していたが、引き継ぐ先はなくなった。「家の中がさっぱりしました」と寂しそうに笑った。

<2>有終の美 アラブ馬に

 若い頃は先行逃げ切り、円熟してからは慎重なスタートで追い上げる。全国で唯一となったアラブ馬の現役競走馬「レッツゴーカップ」は、福山競馬の終幕とともに、その役割を終える。調教師・柳井宏之さん(38)は「家族同然に一緒にやってきた仲間。最後まで全力で駆け抜けてほしい」と残り少ない日々を惜しむ。
 2003年10月にデビューし、福山競馬で158レースを戦ってきた牡馬(ぼば)。戦績は24勝とさえないが、美しい毛並みの白馬が走路に登場するだけで、ファンの歓声がひときわ大きくなった。
 だがいまや12歳。人間なら50歳近いという。10年夏には脚が化膿して腫れ上がる「フレグモーネ病」という病気にかかった。高齢のため、なかなか完治せず、昨年は3回出場するのがやっとだった。
 柳井さんの知人で、数年前に亡くなった厩務(きゅうむ)員から世話を引き継いだ〈忘れ形見〉でもある。柳井さんは毎日午前0~2時に起床し、厩舎周辺を歩かせて体を温めてあげる。体調を気遣い、わずかな変化にも目を光らせる。「本当は無理して走らせたくないが、最後は有終の美を飾らせてあげたい」と話す。
 レッツゴーカップをはじめとするアラブ馬は、地方競馬を長年支えてきた。サラブレッドよりスピードは落ちるが、持久力に優れる。戦前は軍馬として盛んに飼育され、最盛期の1986年には地方競馬で約1万頭登録されていた。負けん気が強く、走りに味があるとファンが多かった。
 福山競馬でも2004年度までは、所属する約600頭全てがアラブ馬だった。昨年、地方競馬最多勝利記録を更新したモナクカバキチもそうだった。
 しかし、時代は高速レースを見せるサラブレッドが主流に。日本中央競馬会はアラブ馬だけのレースを1995年に廃止。福山競馬でも2007年度にはアラブ馬157頭に対してサラブレッドが260頭と、数で逆転した。
 地方競馬全国協会の担当者は「レースの表舞台から消えるアラブ馬は、地方競馬の隆盛も衰退も見てきた。これも時代の流れだ」としみじみと語る。
 福山競馬が廃止された後、レッツゴーカップは個人の馬主が引き取り、のんびりと余生を過ごすことになっている。最終レースは23日か24日かで調整中という。柳井さんやファンの夢を乗せて、ラストランに臨む。

<3>財政への貢献 今は昔

 三村展久さん(29)が騎手になったのは、中学1年の時に、父親と岡山県井原市の牧場を訪れたのがきっかけだった。調教師は小柄な三村さんを見て、騎手に向いていると勧めた。
 父親の方が乗り気になり、何度も福山競馬の観戦に連れて行かれた。15歳の時に「軽い気持ち」で騎手を養成する機関を受験、180人中15人の狭き門を通過し、自分が一番驚いた。初騎乗は2001年4月、初年度の成績は20勝程度で、ぱっとしたものではなかったという。
 その頃、福山競馬は入場者の減少が続いていた。1999年度に実質収支で8億円を超える大幅な赤字を計上。以降も赤字が続いている。
 福山競馬は半世紀以上にわたって市財政に貢献し、リーデンローズやローズアリーナなど大型施設の建設にも充てられた。一般会計へ繰り出し額の合計は約411億円に上る。最も多かった1978年度は約33億5000万円に達した。JFEスチール西日本製鉄所の福山市進出で大幅に人口が増えた頃で、多くの小中学校や公民館を建設、改築することを可能にし、市民生活の基盤を支えた。
 この頃、競馬場のすぐ前に開店した中華料理店「びんご飯店」の店主の浜村博志さん(69)は「昔は連れだってくる客が多かったし、競馬場に行く前と帰りに寄ってくれる人もいた」と振り返る。開催日は周辺の店に人があふれていたという。
 しかし、レジャーが多様化するなどで地方競馬は次第に勢いを失い、<打ち出の小づち>が、<お荷物>になっていく。
 騎手も減少の一途をたどる。騎手志望者は、試験に合格すると栃木県の地方競馬教養センターで2年間、馬術や競馬のルールを学ぶ。地方競馬全国協会によると、2000年度までは同センターの修了者は年25~30人だったが、ここ数年は毎年1けたにすぎないという。現在、福山競馬場に所属する騎手もたった15人だ。
 三村さんは、走り続けるうちに、次第に競馬の魅力にとりつかれていった。「スピード感、躍動感がたまらない。勝負に勝った時の高揚を味わいたい」。地道な筋力トレーニングや乗馬技術向上の努力を重ね、才能を開花させた。
 昨年度は福山競馬で168勝をあげ、今年度も順調に勝ちを重ねている。廃止決定後、複数の地方競馬場から移籍の打診があり、10年度に短期移籍で2か月ほど走った経験がある大井競馬(東京都品川区)に決めた。
 今年1月に長男・祐人ちゃんが生まれた。競馬を取り巻く環境は厳しいが、「騎手は天職。体力の限り走り続ける」と、福山で培った実力を武器に、新天地での飛躍を誓う。

<4>地元で再就職 難しく

 久方ぶりに顔を合わせた(左から)吉田さん、佐藤さん、久木山さん。厩舎団地での生活、大歓声に沸いた最終開催日のスタンド。思い出話に花が咲いた(熊本県荒尾市で)
 調教師や騎手など福山競馬の運営に直接携わる関係者は100人余り。3月の同競馬廃止でこれらの人は職を失う。平成に入り全国で相次いで姿を消した地方競馬。運営する各自治体は、失職した関係者の再就職支援に力を注ぐが、長年競馬ひと筋で働いてきた人も多く、職探しは容易ではない。
 「珍しか顔が来よった」「元気にやっとーとか」。2月下旬、熊本県荒尾市のお好み焼き店「よしひめ鉄板焼」。2011年末に廃止され、全国に散らばったた荒尾競馬の騎手や厩務員(きゅうむいん)ら約20人が久方ぶりに再会、昔話に花が咲いた。
 同店の経営者・吉田隆二さん(47)は荒尾競馬で通算1824勝、年間最多勝に3度輝いた元スター騎手だ。実績的にも体力的にも十分、他競馬場への移籍が可能だったが、地元の学校になじんでいる子どものことを第一に考え、昨年、旧馬場の近くに店を開いた。
 料理をしたこともほとんどなかった。妻・薫さん(44)の手を借り、納得がいくまで何度も焼き、ソースの調合を重ねた。収入は騎手時代に遠く及ばないが、徐々に固定客もでき始めた。

 「遠方から足を運んでくれるファンもおる。今までもこれからも、支えてくれる人に頑張る姿見せんと」。吉田さんは前を見据えた。
 荒尾市は廃止に合わせて、競馬対策室を設置、周辺市町の企業に競馬関係者の雇用を要請した。職がみつからない人の一部は県の助成を利用し、競馬場跡地管理の職にあてた。
 同対策室によると、今年2月末時点で、失職した関係者102人のうち69人が再就職を決めた。高齢などを理由に引退するなどした人は29人。今も4人が就職先を探している。
 職をみつけた人の半数以上は、県外の競馬場や牧場など勝手を知る競馬関係の仕事だった。他は一般企業などだが、不景気で地元の雇用は少なく、故郷を離れる決断を迫られている。
 同競馬の元騎手・佐藤智久さん(29)は妻(32)と幼い2人の娘とともに北海道安平町に移住。牧場で2歳以下の幼駒(ようく)を競走馬として育成する業務を担当している。
 騎手時代は成績で収入が左右された。今は固定給で生活が安定したが、「住み慣れた土地を離れるのはしんどかった。正直、現役で騎手を続けたい思いもあった」と苦さをかみしめながらの再出発だ。
 競馬とは縁のない新たな道を歩み始めた人もいる。
 30年近く厩務員を務めた久木山満さん(44)はヘルパー2級を取得し、昨年6月から荒尾市の病院で高齢者の入浴や食事を手伝う看護助手として働いている。年下の上司に叱られることもあるが、「人と接するのが好きだったし、今の仕事は満足」と笑顔を見せる。
 「(福山競馬関係者は)境遇が似とっけん、不安やつらさはうちらが一番よくわかる。ばってん、需要のある介護分野など再就職のチャンスはいくらでもある。何にでも挑戦する心を持ち続けてほしい」。久木山さんはそう話した。

<5>跡地の有効活用 白紙

 福山競馬の廃止後、総面積約15ヘクタールの競馬場の跡地はどうなるのか。福山市中心部に位置する広大な一等地だけに、手つかずのままでは市街地の空洞化が心配される。同様に事業撤退した競馬場の跡地利用を取材した。
 蔵王連峰の麓に位置する山形県上山市で2012年、大阪府門真市の医薬品製造会社が真新しい白壁の工場を稼働させた。03年に廃止した上山競馬場の約22ヘクタールの跡地だ。工場の稼働で約240人の新規雇用が生み出された。周辺には地元運送会社の建物も並ぶ。
 「工場の新築移転とタイミングがうまく合った。運が良かった」。市企業誘致推進室の担当者はそう語る。
 上山市は競馬事業の廃止後、市所有の跡地22ヘクタールのうち12ヘクタールを工業用地に造成することを決めた。企業誘致推進室を設置し、地元だけでなく、大都市の企業にも売り込むなど、売却先探しに奔走した。医薬品製造会社が工場の新設を決めたのは07年。市は土地の売却代9億1000万円に加え、賃貸部分で年間4000万円の収入を確保できた。

荒涼とした更地が広がる益田競馬場の跡地。高台から見下ろすとわずかに競馬場の面影が伝わってきた(島根県益田市で)
 同推進室の担当者は「土地の造成費は買い手の負担だったが、県の融資制度を活用するなどした。営業に力を入れたのも奏功した」と振り返る。
 だが、上山市のような成功例はまれだ。競馬事業を廃止した多くの自治体は、跡地活用について苦慮している。景気低迷や財政難などもあり、道のりは険しいという。
 日本海からの風が吹き付ける丘陵地に荒涼とした更地が広がっていた。02年に廃止された島根県益田市の益田競馬場跡地だ。「益田の顔だった競馬場がこげん姿のままになっとるのは寂しいですね」。かつて同競馬の騎手として活躍し、廃止後は福山競馬に移籍した元騎手﨏畑(さこはた)雄一郎さん(31)(益田市)は言う。
 同競馬場の跡地11ヘクタールのうち、活用されているのはほんの一部。県が高等技術校や民間の高齢者施設を建てたものの、大半の土地は更地のままだ。
 益田市は競馬事業廃止後、馬場部分の8ヘクタールを15億5000万円で市土地開発公社に売却した。しかし、丘陵地という地形のため、住宅地や工業用地を整備するにも排水設備工事が難しい。丘陵の裾にある住宅地の排水工事が終わったのは、廃止から10年以上たった昨年3月だった。
 その間も民間金融機関から調達した土地購入費の返済を迫られ、利子だけで年間1700万円に。同公社の田中健事務局長は「土地を長く保有すればするほど赤字は膨らむばかり」と頭を抱える。
 廃止した地方競馬の多くは、市街地に広大な面積を有し、活用次第で大きな経済効果を生み出す可能性を秘める。福山競馬の跡地についても大手スーパーや商業施設が候補としてうわさされている。羽田皓福山市長はこれまでの記者会見で、「関係者の生活支援が最優先。跡地の利用は白紙」としている。

<6>協力金交渉 長期化も

 飼育されていた馬が空になった厩舎。馬房にはかすかに生き物の匂いが残っていた(熊本県荒尾市、荒尾競馬跡地で)
 地方競馬廃止にともない競馬関係者に支払われる「協力金」。多額の繰り入れ金で運営自治体の財政を潤した人たちへの“謝礼”あるいは“退職金”としての意味合いを持つ。だが、交渉では、きちんとした生活補償を求める関係者と、財政難から支給額を抑えたい行政側の思惑がぶつかり合う。他競馬を取材すると、容易に妥結に至らない実情が浮かび上がった。
 「市への貢献を考慮し関係者には出来る限りの支援を行った。一方で、公金を使うため市民にも納得してもらう必要があった」。2011年末で廃止された荒尾競馬(熊本県荒尾市)の末永淳一・市競馬対策室長はそう話す。
 荒尾市は、調教師や騎手など8団体の300人に総額4億1700万円の「協力見舞金」を支払った。

 協力金は失業手当の支給例をモデルにした。調教師などの場合、過去3年間の平均月収の8割に、年齢や勤務期間に応じて3~11か月分を掛け、そこへ再就職と住居移転の支援金を上乗せした。
 年齢が高く収入も多い調教師は1人平均781万円、比較的若年層の多い騎手は同274万円、厩務員(きゅうむいん)同214万円などとなった。各団体との交渉が全て妥結したのは廃止から約1年後だった。
 協力金の支給をめぐって法廷闘争に発展したケースもある。
 中津競馬(大分県中津市)は、01年に事業撤退した。中津市は関係11団体と交渉し、10団体の225人に総額2億円の協力金を支払うことが決まった。
 しかし、市は馬主には協力金を支払わないとしたため、馬主46人が02年、「突然の廃止で損害を受けた」として、賠償金約6億7000万円を求め、大分地裁に提訴した。
 同市総務課によると、1審では馬主側の請求が棄却された。控訴審で裁判所は、市が馬主に積極的に競馬への資本投資を呼び掛けたわけではないとした上で、馬主は競馬事業に欠かせず、廃止時には一定の配慮が望ましい、と和解を勧告。結局、05年に市が馬主側に計2100万円を支払うことで合意した。
 同市総務課の法務担当者は「訴訟はかなり時間がかかり、行政も関係者も消耗した」と話した。
 福山市では現在、調教師や馬主など業種別に協力金について交渉中だ。今月初め支給額について騎手部会とは基本合意した。
 市は3月の一般会計補正予算案では協力金の原資として約3億8000万円を計上した。だが、その内訳は具体的に決まっておらず、残りの団体ともお互いに根気の要る交渉が続く。

<7>“お荷物”解消知恵絞る

 戦後、地方自治体が運営し、収入源としてきた地方競馬。ピーク時の1991年度には全国30か所で1兆円近くの売上高があったが、昨年度、3300億円台にまで落ち込んだ。財政を圧迫する“お荷物”となった地方競馬は、平成に入り13か所が姿を消した。
 今月24日の福山競馬の廃止で、残る地方競馬は全国に15か所。ほとんどは運営が厳しく「連鎖が起きるのでは」と<福山ショック>を警戒する。現状の打開に努力する各競馬場を追った。
 ナイター設備 大型照明から放たれた光が、ダートを疾駆するサラブレッドの馬体を滑らかに照らし出す――。高知市の名所・桂浜にほど近い高知競馬は2009年、1億6000万円かけてナイター設備を導入した。
 同競馬は03年、88億円の累積赤字を、高知県が資金を投入して解消。しかし、113連敗した“スターホース”ハルウララが06年に引退したあとは売り上げが伸び悩んだ。開催時間を他競馬とずらして競合を避けるナイター営業は、収益アップの秘策だった。ライトアップされたレースは迫力があると好評で、ネット販売も好調に推移した。
 09年度の売上高は、前年度の38億円より4割増の54億円。その後も増加を続け、今年度は80億円を超える見込みという。
 県競馬組合の武市隆志管理者は「スピード感のある思い切った対応をするしか生き残る道はない」と話す。
 高知競馬は、福山競馬と競走馬や騎手の交流、馬券販売で連携し、「昼は福山、夜は高知」とPRしてきたが、明暗は分かれた。
 ファン層拡大 実際、高知のように大型の設備投資ができる所は、資金面で限られている。
 佐賀競馬(佐賀県鳥栖市)では今年度から、指定した7レースの勝ち馬を全て当てる「7重勝単勝式」馬券を全国で初めて導入。他の地方競馬から強豪馬を集める「交流競走」も増やした。
 岩手県競馬組合は管轄する2競馬(盛岡、水沢)の情報番組を衛星放送で流し、魅力を全国のファンにアピールしている。
 金沢競馬(金沢市)では地元ラジオで初心者向けに競馬予想紙の見方を解説したり競馬場に招待したりしてファン層拡大を図る。
 いずれもコストをかけずファンに“夢のある競馬”を見せる取り組みだが、始めたばかりの事業で効果は未知数という。
 佐賀県競馬組合の江崎保夫事務局長は「福山の廃止で関係者は危機感を持っている。地方競馬全体が地盤沈下しないためにも全国的に連携していく必要がある」と話す。
二重構造見直しを 地方競馬に詳しい立川健治・富山大教授(競馬学)は、「資金が豊富で強い馬も集まる中央競馬(JRA)に人気が集中するのは必然。中央と地方が共存する二重構造を見直さなければ、地方競馬は消滅する運命にある」と指摘する。
 半世紀以上の歴史に24日で幕を閉じる福山競馬。その衝撃は地元だけではなく、日本の競馬界にも大きな波紋を広げている。(読売新聞)