競走馬の調教風景に魅了され、スケッチを続ける男性がいる。雨の日も、冬の寒い日も−。川崎競馬の小向練習馬場(川崎市幸区)へ通い、描きためること約8千枚。このほど、水彩画に仕上げた作品が競馬場に寄贈され、観覧席に展示されることになった。薄明かりの早朝、トレーニングセンターを疾走する馬の姿に、かつて大病を患った男性は「力をもらい、救われた」と話す。
時速約60キロ。砂の走路を駆け抜ける一瞬を切り取り、脳裏に焼き付ける。五感を研ぎ澄ませ、大型馬で500キロ超の重量感や、ひづめで砂をかく力強さを記憶し、紙の上へと落とし込んでいく。
「描いている時が一番無心になれるし、安らげるんです」
平野幸一郎さん、67歳。練習馬場の近くに住むアマチュア画家はほぼ毎朝、1周約1200メートルのコースを望む土手に腰を下ろす。調教風景に向き合って6年。きっかけは、自身の病にあった。
大腸がん。そう診断されたのは、定年を2年余り残して役所勤めを終えた直後だった。20代で専門学校に学び、仕事の合間には京浜工業地帯など地元の風景画を描き続けてきた。早期退職後、さあ本格的に、と考えた矢先である。
がんは肺に転移し、一時は「延命治療しかできない」ほど、瀬戸際まで追い込まれたという。その後、病状は回復したが、「家にいると病気のことで落ち込む。それを忘れられる時間だった」。自宅から直線距離で約100メートル。練習馬場へ足を運ぶのを一日の始まりとした。
およそ600頭。早朝3時から9時すぎまで、入れ替わりで馬場を踏みしめる。放牧期を除き、毎日の調教が不可欠な厳しい世界だ。1時間半ほどでスケッチは30枚ほど進む。「馬が暴れたり、調教を嫌がったりという面白さが練習馬場にはある」。印象的な場面があれば、水彩画へと仕立てていく。
そのうちの一点が、知人らを通じて競馬場に寄贈された。「雨の中の調教」(縦47センチ、横60センチ)と題した4年前の作品だ。馬体の黒と調教助手の帽子の赤、雨がっぱの紺。わずか3色で「主役」を鮮明に浮かび上がらせた。
「競馬場が晴れの舞台ならば、それは馬にとって1パーセントくらいのもの。残りの99パーセントは風雪の中、砂(すな)埃(ぼこり)舞う中で調教されている」。一握りの勝者と、無数の敗者が混在する練習馬場で繰り広げられる、地道な鍛錬の日々。人間の営みにも似ているのでは、と平野さん。退職後、海外を回る夢もあったが、現在の心境は違う。「一生、追い掛けたいと思えるものが、こんな近くにあったとは。病気になって初めて分かった」(神奈川新聞)【写真】川崎競馬場に寄贈された水彩画「雨の中の調教」。右は作者の平野さん