2010年10月26日火曜日

つい来ちゃう」温かさ


 福山市営競馬場のパドック北にある食堂「お食事処 多幸」の店内に、甘辛いソースの香りが漂ってきた。「おまちどおさま」。店主の石井幸一(49)が、素早い手付きで3人分の焼きそばを仕上げ、声を上げた。

 30人ほどが入れる店内の壁には、「うどん」「そば」「牛丼」など、数十種類のメニューが並ぶ。競馬新聞片手に次のレースの予想に忙しい赤ら顔の男性客もいれば、おでんの皿を囲みながら、「調子はどう」「今日は外れてばっかり」と言葉を交わす常連客の姿も。石井は、額に汗を浮かべながら、再びスタンドに戻ろうと店を出る客に、「ありがとう」と声を掛けた。



 店は父・幹祐(故人)が始めて、半世紀以上になる。1960年代後半、石井は小学生の頃から、皿洗いや仕込みを手伝うようになった。

 高度経済成長のまっただ中。「いらっしゃいませ」と声を掛ける間もなく、客はどんどん押し寄せ、店内は身動きがとれないほどの盛況ぶり。羽振りのいい客は、レースに勝てば、店中の客におごって回り、数千円もの小遣いをくれたという。



 高校卒業後は福山市を離れ、大阪府内の料亭旅館で料理長を務めるなど、調理師として働いたが、13年前、父の死をきっかけに跡を継いだ。

 「とにかく忙しいから、大変だろう」。幼少時の記憶のまま、そう思って調理場に立ったが、競馬場の入場者数は、子どもの頃に比べて三分の一程度にまで落ち込み、商売は思うように行かず、「こんなはずじゃない」と頭を抱える日々が続いた。



 黙っていても、客が来る時代は終わっていたことを実感した。「温かみのある店にはまた来たくなるはず」。そう思い、一緒に店を切り盛りする妻の洋子(46)と、出来るだけ客と言葉を交わすようにした。世間話、家族の話、時には恋愛相談も。何度も繰り返して来たい、と思ってもらえるよう、家庭的な雰囲気づくりを心掛けると、次第にリピーターも増えていった。東京から毎年来る客もおり、休日に家族で訪ねていったこともある。

 幼少時からの石井を知る常連客の岩本繁則(63)は、「ついつい来ちゃうんだよ」と笑う。家族ぐるみの付き合いという尾道市因島三庄町の土木業阿部秀樹(57)、香織(51)夫婦も「競馬場で出会うまで、全く知らなかった人たちが、食堂で意気投合して、親友のように仲良くなっちゃう。そんな雰囲気がこの店にはあるんだよ」とうなずく。

 石井は厨房(ちゅうぼう)から客を見渡しながら、「年齢も、職業も、全く違う人たちが集まるこの食堂が、人間関係の素晴らしさを教えてくれた。商売は大変だけど、お客さんという財産は消えない宝」と目尻を下げた。(読売新聞)

【写真】焼きそばを作る石井。妻の洋子(中)と一緒に作り出す家庭的な雰囲気に引かれて来る客も多い(「お食事処 多幸」で)